【CASE006】修学旅行企画一筋30年オガサワラ

修学旅行と晩酌と、あの錆びたレールのこと
修学旅行の行き先を、今は子どもたちがバーチャル体験と組み合わせて選ぶのだそうです。旅程の大半は、AIが組んでしまう。
あのころの私は、老後が「微妙」だと思っていたのです。
五十五歳の私は、延長雇用でどこまで生活が持つだろうと、夜の晩酌をやりながら、ぼんやり考えていたのでした。タバコに火をつけて、煙を天井に向けて吐いて、それで考えた気になっていた。まったく、ずいぶんと安上がりな思考法だったと思います。
今の私は85歳です。金融資産はとうとうゼロになりました。それは事実で、隠しようがない。ただ、正直に言うと、ゼロになる少し前も、ゼロになった今も、晩酌の麦焼酎の味は、そう変わらなかったのです。これは自慢でも負け惜しみでもなく、ただの報告です。
あなたへ
今日、久しぶりに押し入れを開けたら、あなたの鉄道模型が出てきました。埃をかぶった車両をひとつ手に取ったら、なんだかおかしくて、少し泣いてしまいました。
あなたは今56歳でしょう。今夜もきっと、晩酌をやりながらぼんやりと天井に煙を吐いているんでしょうね。あの癖、ずっと変わらなかったな、と思います。
私がこっそり嬉しかった瞬間があります。あなたが定年を迎えた少し後のこと。確か雨の日の夕方だったけれど、あなたが珍しく「ちょっと歩いてみないか」と言ったんです。行き先もなく、傘を二本さして、近所の商店街をふらふらと。結局どこにも寄らず、濡れた路地を三十分ほど歩いただけでしたが、あなたが「悪くないな」と言ったときの横顔を、今でも覚えています。仕事一筋だったあなたが、そんなふうに時間を使えるようになったことが、私には何より嬉しかった。
年金生活に入ってからは、食卓に二人分の湯呑みが並ぶ時間が増えました。言葉は少ないままでしたが、それで十分でした。あなたもそう思っていてくれたら、と願っています。
鉄道模型には長年呆れていましたよ。でも今になってわかります。あの模型棚には、あなたが足を運んだ土地と、乗せた子どもたちの顔と、三十年分の仕事が詰まっていたんだって。それを呆れた目で見ていた私は、少しもったいないことをしました。
最近の世の中では、AIがあっという間に旅程を組んでしまうようになりました。修学旅行も、バーチャルと組み合わせた新しい形に変わっています。それでも、「人間が実際に歩いて設計した旅には、何かちがうものがある」と、若い人たちが改めて言うようになったと聞きます。あなたの仕事は、ちゃんと次の世代に届いていますよ。
金融資産がゼロになった今も、あなたの麦焼酎の飲みっぷりは変わらない。糖尿病の先生には相変わらず叱られているけれど、85歳まで生きてくれました。それだけで、十分すぎるくらいです。
ありがとう。これからも、一杯付き合わせてください。
妻より
30年という長さが、わかっていなかった
五十五歳の私は、旅行業界一筋で修学旅行の企画と営業を続けていました。学校の先生たちと話し合い、子どもたちが乗る新幹線の座席を手配し、旅程表の細部に神経を注ぐ、その仕事が好きだったのです。「好きだった」と書くと過去形になってしまいますが、正確には、好きだったことに気づくのが、ずいぶん遅かった。
大手の旅行会社を二社渡り歩いて、その頃の私が当たり前だと思っていたのは、各地の学校で講演をするポジションについていたことでした。業界の共同出資機関に出向して、子どもたちの旅と安全を語る仕事。これが「すごいこと」だとは、ちっとも思っていなかった。
でも今になって思うのです。30年以上かけて積み上げた専門知識と、現場で鍛えた話術と、人情と。あれは立派な財産だったと。
60歳になったとき、定年後の延長雇用の給与が加わって、収入の構造が少し変わりました。正直なところ、あの頃の私は「延長してもらっている」という引け目を、どこかに抱えていたのです。頼まれているのではなく、拾ってもらっているような気がして。みっともない話ですが、そうだったのです。
それでも、スーツを着て電車に乗って、学校の体育館のマイクの前に立つたびに、子どもたちの顔が輝く瞬間があった。「修学旅行って、そんなに面白いんですか」と目を丸くする中学生に、私は何度も救われていたのだと、今ならわかります。
鉄道模型と、妻と、静かな部屋
趣味の鉄道模型には、相変わらずこだわりの出費をいとわなかったのです。これについては妻にずいぶん呆れられましたが、私にも言い訳があります。あの精巧なレールと車両が並ぶ光景は、私にとって修学旅行で見てきた日本の路線の、ミニチュアの記憶だったのです。出張先で眺めた地方の駅、子どもたちを乗せた特急列車。模型を眺めながら飲む夜の一杯は、30年分の仕事の記憶と一緒に飲んでいるようなものでした。
夫婦の会話が途絶えていたことは、今になっても少し申し訳なかったと思っています。妻も妻で、そういう人と一緒になったことを、とうの昔に腹の底で納得していたのでしょう。子どもたちが二人とも家を出てから、この家はずいぶん静かになりました。65歳で年金生活に入ってからは、私たちなりの静かな時間の共有が、少しずつ戻ってきました。言葉は少ないままでしたが、食卓に二人分の湯呑みが並ぶことが、私には十分でした。
ある朝のことを今でも覚えています。妻が黙って番茶を淹れて、私の前に置いた。それだけのことです。でも、その湯気の立ち方が、妙に優しかったのです。
定年になって少し経った頃、私は「ちょっと歩いてみないか」と言いました。あれは、自分でも気の利いたことを言ったつもりでいたのです。ところが実際のところ、あの晩は金融資産の計算を繰り返していて、このまま家にいたら自分がどうにかなりそうな気がして、逃げ出したかっただけなのでした。
傘を二本さして歩きながら、私は内心、ひどく怖かったのです。ローンはまだ残っていて、延長雇用の給与がいつまで続くかも、はっきりとはわからなかった。「悪くないな」と言ったのは本当で、それは嘘ではありませんが、同時に、声に出さなければ自分が崩れそうだった、ということでもあったのです。
妻は何も聞かなかった。ただ黙って濡れた路地を歩いていた。あの沈黙を、私はずっと優しさだと思っていたのですが、もしかすると彼女にも、聞けないことがあったのかもしれません。
29年後の世界で、それでも残ったもの
私が現役だった頃の仕事の形とは、だいぶ変わってしまいました。それでも、あの仕事が無駄だったとは思わない。むしろ、「人間が足を使って設計した旅」がどれほど価値を持つか、後の世代が改めて気づいてくれたとも聞いています。
65歳で年金と妻の給与が重なった時期には、老後の見通しが案外悪くないことに、私はこっそり驚いていたのでした。あれほど「微妙」だと思っていたのに、何のことはない、ちゃんと生きてこられた。タバコは医者に叱られながらも長く続け、晩酌も手放さなかったのに、85歳まで生きてしまいました。糖尿病との付き合いは長くなりましたが、それも込みで、この体と30年付き合ったわけです。
金融資産がゼロになった今、残ったのは、不動産の価値と、年金の毎月の入金と、錆びかけた鉄道模型と、静かな食卓です。
最後に、あの模型のことを
五十五歳のあなたは今夜も、レールに小さな車両を走らせているだろうか。こだわりの機材に、それなりのお金を出して。
あの模型に費やした時間と金は、けっして無駄ではなかったのです。少なくとも私にとっては。
資産がゼロになった今も、あのレールの上を走る車両の音が、私には聞こえる気がするのです。あなたにとって、あの模型はいくらの値段がするだろうか。
六十歳のとき、私は働くのをやめませんでした。やめなかった、というより、やめる勇気がなかったのです。正直に申しますと、あのとき手元にあった一千四百十九万円という数字が、私には大きすぎず小さすぎず、ちょうど判断を曖昧にさせるのに都合のいい金額だったのでした。「もう少し増やしてから」と自分に言い聞かせて、結局そのまま机の前に座り続けました。臆病者の選択を、慎重さと呼んでいたのです。
働き続けた十三年は、特段の冒険も転落もなく過ぎました。七十三歳の時点で資産は七千九百二十五万円になっていましたが、それが嬉しかったかといえば、正直よく覚えていないのです。数字が増えていく安心感と、自分が何を楽しんでいたのかという問いが、静かにすれ違ったまま時間が経った、そんな感じでした。
今、八十五歳で手元にあるのは四千十二万円ですから、不自由はありません。ありませんが、語れることが多くないのです。これは嘆き節ではなく、ただの事実として申し上げているのですが、八十年を超えて生きてきた人間の話というものが、もう少し波乱に富んでいてもよかったかもしれない、とは思います。
それでも私は、この静かで少々平板な人生を、そんなに嫌いではないのです。みっともなく机にしがみついて、臆病を慎重と言い張って、それでも誰かを傷つけることもなく八十五まで来た。大した話ではありませんが、これが私の話なのでした。
🗳 55歳で「老後は微妙」と言い、60歳から延長雇用を続けた。あの選択の向こう側に、何を見たい?
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
この人生は架空のものです。ただし、資産の推移と「金融資産がゼロになる年」は、 実際の計算式で出した数字です。
あなたの数字も、同じ方法で見ることができます。
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開発の記録はこちらに書いています。 https://note.com/max7777