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【CASE005】革靴を磨き続けた温泉男マツ

一億円を返し終えて買ったのは、五百万円の車だった
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スーツの重さを、湯の中で脱いだ日のこと

タクシーが走りながら行き先を予測して、私の前で静かに止まる。三十六年前には、手を挙げて待つのが当たり前だった。

八十六になった今も、温泉に入るとあの頃のことを思い出す。五十代の私は、毎朝スーツを着るたびに何かを鎧っていた。外資系の白い壁に囲まれたオフィス、薬の名前と数字が並ぶ資料、先生方の診察室の前でひたすら待つ廊下。それが私の戦場だった。マネージャーから一般営業へと降格したとき、まわりは私を憐れむような目で見た。でも不思議なことに、私は気にしなかった。年収は千二百万のまま変わらず、現場に戻れた。降格して収入がそのまま、というのは奇妙な話だが、当時の私はその奇妙さをありがたく受け取っていた。嫌いな上司の顔を毎朝見なくてよくなった。それだけで充分だと、あの頃の私は知っていた。

それが賢い判断だったかどうかなんて、誰にもわからない。ただ、あの選択が私を二十年以上、第一線で走り続けさせてくれた気がする。


転勤のたびに、タワーマンションの高い階を選んだ。窓の外に広がる夜景が、一人で飲むウイスキーの色と溶けあう瞬間が好きだった。六十歳で定年を迎えたとき、ようやく「自分のための家」に引っ越した。ローンを抱えたまま入居した自宅マンションは、夜景よりも街の音が近くて、最初は落ち着かなかった。それでも、荷物を運び込んだ夜、誰に頼まれたわけでもないのに、靴箱の中にある革靴をきちんと並べた。あの靴たちは私の勲章だったから。

あなたへ

先日、近所の温泉施設の脱衣所に、小さなモニターが設置されたでしょう。体温や血圧を脱衣しながら自動で計測してくれるあれ、あなたは最初「余計なお世話や」と言いながら、結局毎回きっちり確認しているそうで、笑ってしまいました。八十六になっても、そういうところは変わらないですね。

あなたが六十五のとき、車を買いましたね。五百万円の買い物に、私が「また急いで」と苦笑いしたこと、覚えていますか。あなたは「遠い温泉に行くためや」とだけ言って、嬉しそうにパンフレットを眺めていた。あの顔が、今でも目に浮かびます。あの車がなければ、二人で出かけた山の湯も、朝靄の中の道の駅も、なかったと思うと、あの日の苦笑いを少し後悔しています。

あなたが仕事を続けていた頃、私はあなたのスーツをいつもクローゼットの同じ場所にかけていました。あなたは気づいていなかったと思うけれど。忙しい朝に、あなたが一秒も迷わず手を伸ばせるように、それだけを考えていました。たったそれだけのことが、なんだか大事なことのように思えていたんです。

最近、足腰が正直になってきたでしょう。糖尿病との付き合いも長くなりました。遠出は減ったけれど、近くの温泉でお湯に浸かって帰ってきたあなたの顔は、昔と同じ顔をしています。何も鎧っていない、ただ静かで、少し満足そうな、あの顔。それを見るたびに、私はほっとするんです。

あなたは自分で思っているより、ずっとまっすぐに生きてきた人です。格好をつけながら、でも本当に大事なことには正直だった。そういうあなたのそばにいられたことが、私にとっての幸せでした。

これからも、お湯につかって、帰ってきてください。それだけでいい。

妻より

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三十六年が経つと、街の風景もずいぶん変わった。医薬品の情報は、MRが訪問しなくても医師のホログラム端末に届く時代になった。私が二十年以上かけて築いた「足で稼ぐ」スタイルは、今となっては古い言葉になってしまったけれど、あの頃の私はそれを誇りにしていたし、今もそう思う。


六十五歳のとき、少し迷って車を買った。五百万円の出費だった。退職金の手応えをまだ手のひらに感じているうちに決めた買い物で、妻には「また急いで」と苦笑いされた。でも、あの車のおかげで温泉巡りの半径がぐっと広がった。一人で朝早く出かけて、山の中の小さな湯に浸かり、帰り道に道の駅で何か食べる。それが私の一番幸せな一日の形だった。

そのドライブの途中、七十代のある冬の夕暮れに、寄った温泉宿の老主人から一杯の塩むすびをもらったことがある。「今日うちの嫁が作り過ぎてねえ」と言いながら差し出してくれた、ラップに包まれただけの小さなおむすびだった。受け取った瞬間、なぜか胸のどこかが緩んだ。高級スーツも、タワーマンションも、スナックのカウンターで気前よく払う一万円札も、私の自己表現だと思ってきた。でも、あのむすびを口にしたとき、私はただの一人の人間だった。何も鎧っていない、ただの八十キロ近い中年のおじさん。それが妙に温かくて、少しだけ価値観の重心がずれた気がした。


八十を過ぎると、足腰に正直に年が出てくる。糖尿病とのつきあいも長くなった。遠出はしづらくなって、近場の温泉で湯に浸かる時間が増えた。それでも、お湯の中にいると昔と同じ静けさが戻ってくる。五十代の頃から変わらない、あの独特の沈黙。外の騒がしさも、借金の数字も、降格の記憶も、全部一度お湯に溶けてしまうような感覚。

革靴を磨き続けた温泉男マツ
あの朝のことを、まだ思い出す。

車を決めた翌朝、台所でほうじ茶を淹れながら、手が少し震えていた。五百万円。その数字を頭の中で転がすたびに、胃のあたりがひっそりと冷えた。迷っていた、というより、怖かったのだと思う。格好よく「遠い温泉に行くためや」と言ったけれど、本当のことを言えば、あの日の私はただ誰かに止めてほしかった。

止めてほしかった。

それを認めるのに、これだけの年月がかかった。社交的なふりをして、マイペースなふりをして、決断力があるふりをして、ずっとそうやって生きてきた。でも六十五のあの朝だけは、熱いほうじ茶を一口飲んで、湯呑みを置いて、しばらく動けなかった。窓の外はまだ薄暗くて、街がまだ眠っていた。

結果としてあの車はよかった。それはそう。

ただ、よかったかどうかの話ではなくて。怖かった、ということを、どこかにちゃんと置いておきたかった。
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若い頃、身の丈を超えた不動産に手を出して、一億円の借金を背負った。それを高収入で返し続けた日々は、苦しかったというより、むしろ自分を律してくれていた。あれがなければ、私はもっと早く緩んで、こんなに長く走り続けられなかったかもしれない。傷も荷物も、結局は背骨になる。

スナックのカウンターで、ママに気前よく使う夜も好きだった。誰かに自分を語るわけじゃないけれど、ただそこにいるだけで十分な空間。あの感覚は今も変わらない。ただ、飲める量が減っただけで。


八十六歳の私が五十歳のあなたに伝えたいことがあるとすれば、それは「続けていいよ」でも「信じていいよ」でもなく、ただ、今着ているスーツの重さを、あなたはちゃんと知っている、ということだ。

あの五百万円の車は、六十五歳の私にとって少し大きな決断だった。でも、あの車なしでは出会えなかった湯が、確かにある。五百万円の価値は、走った距離で決まるのか、出会った沈黙の数で決まるのか、私にはまだわからない。

ただ、あなたが今返し続けているその数字も、いつか何かに変わる。何に変わるかは、まだ決まっていない。

物申す!意見
革靴を磨き続けた温泉男マツ

八十六になって、話せることが思ったより少ないな、とは気づいている。

六十のとき、わたしは早期リタイアをしなかった。それだけのことだ。桜の花びらが一枚、風の向きによって左へ落ちるか右へ落ちるか、そういう話に近い気がして、今となってはその選択を大げさに語る気にもなれない。

それから十三年、働き続けた。体が動く限り職場へ出て、季節が変わるたびに小さな仕事の節目があって、七十三になったころには資産が一億一千百四十七万円になっていた。数字だけ見れば、何かをうまくやったように見えるかもしれない。でも正直に言えば、ただ続けていただけだ。大きな判断も、鮮やかな決断もなかった。朝、起きて、用意して、出かけた。それを積み重ねたらそうなっていた。

たばこは若いころに一度だけ吸いかけて、すぐやめた。煙が口の中に残る感じが好きになれなかった。それだけの理由だったが、あのころわたしが嫌ったものが、ずっと後になって口の中から人の顔を変えてしまうほどの病気を引き起こすと聞いたとき、鼻の奥がひんやりした。若い人が小さな白い袋を口に含んでいる光景が、晩年にはずいぶん増えた。何十年か経てば、その影響が顔に出るのだろうと、静かに心配した。

七十三から八十六にかけて、お金はだいぶ減った。体のあちこちが言うことを聞かなくなって、手当てや暮らしのために使った。六千百三十二万円、それが今のわたしが持っているものだ。増えたものを使い、使って今がある。それは自然なことだと思っている。

語れることが少ないというのは、悲しいことではない。冬の野原がただ静かに白いように、大きな波もなく、しかし確かにここまで来たという事実が、ゆっくりと足の裏に伝わってくる。それで十分な気がしている。

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🗳 60歳で仕事を続け、65歳で500万円の車を買った。あの選択の向こう側に、何を見たい?


ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

この人生は架空のものです。ただし、資産の推移と「金融資産がゼロになる年」は、 実際の計算式で出した数字です。

あなたの数字も、同じ方法で見ることができます。

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開発の記録はこちらに書いています。 https://note.com/max7777