ザンヨメ💀残高余命

インフレ・健康寿命から逆算する、50代からの究極 of 自由設計
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何気なく有益な情報を教えたら評価ゼロ、いやマイナスだった件

先日、お気に入りの美味しい町中華を知人に紹介した。

そこは私が学生の頃から通っている地元民に大人気のお店で、いわゆる「キタナシュラン」だが、出てくる料理はどれも味が超絶うまい。ただ、店主のポリシーなのだろうか精神が旺盛すぎるあまり、デフォルトの白米の量が一般的な店の1.5倍はある。若い頃の私にとっては、まさに「神店」だった。

後日、その知人に会った際、何気なく「こないだ教えた町中華、どうだった?」と感想を聞いてみた。

すると、彼の口から返ってきたのは、感激の言葉ではなく、予想だにしない拒絶の嵐だった。

「あそこ、マジで最悪だわ」 「いくらなんでも量が多すぎる。嫌がらせかと思った」 「あれがデフォルトなんてあの店は絶対頭がおかしい」

彼は本気で憤慨していた。 私は耳を疑った。私が彼に紹介したのは「美味しい料理を出す店」であって、「盛り具合がちょうど良い店」を紹介したわけではないしそうも言っていない。味の感想が一切出てこないことに違和感を覚え、私は重ねて聞いた。

「いや、量はともかく、味はどうだったの?」

しかし、彼はその質問には答えず、「とにかくあんな店は二度と行かない」と不機嫌そうに吐き捨て、話を打ち切ってしまった。

なぜ人は「自分に合わない」を「ダメなもの」に変換するのか

彼の脳内で何が起きていたのか、少し俯瞰で分析してみる。

結論から言うと、彼は「食べ切れなかったことが嫌だった」。そして彼のポリシーは「出された食べ物を残すのは悪である」という、生真面目な幼児教育のバグが刷り込まれていた。

つまり、彼の中で以下のようなコンボが強制発動したわけだ。

  1. 想定外の大盛りが目の前に現れる
  2. 「残してはいけない」という強迫観念から、無理して完食する
  3. 胃が引き裂かれそうになり、体調を崩す(苦しい)

客観的に見れば、これは単なる「事前のリサーチ不足」か「店選びのミスマッチ」に過ぎない。確かに、体格の大きい彼を見て「大柄な彼なら余裕だろう」と軽く考え、「ご飯の量が多いから気をつけてね」と言わなかった私にも一因はあるかもしれない。

しかし、運ばれてきた白米のタワーを見て、即座に「すみません、ご飯少なめで」と言わなかったのは彼自身である。周囲の客のテーブルを見渡せば、その店の「規格外の戦闘力」は一目で察しがついたはずだ。

ところが、彼の脳内で導き出された最終結論は、こうだ。

「俺が苦しい思いをした。だから、あの店は悪い店だ」

自分の胃袋のキャパシティや、勝手に抱いた罪悪感をすべて棚に上げ、すべての原因を「店側の異常性」にすり替えてしまった。自分の問題を自分の問題として認識できない、典型的な思考のハッキング現象である。

店はあなたの胃袋を知らない

小学生でもわかることだが店側は、彼一人のために商売をしているわけではない。

その町中華には、他にも多様な客が訪れる。 「とにかく安くたくさん食べたい現場仕事のトラック運転手」もいれば、「圧倒的なコスパを重視する腹ペコの大学生」もいる。「育ち盛りの若い男性」や「純粋な大食いのファン」もいるだろう。店主は、そうした顧客たちの満足度を最大化するために、あのボリュームを頑なに維持し、昨今の物価高にも負けず、行列ができる覚悟で提供しており、実際に行列ができている。

店側は、あなたの今日の体調も、胃袋のサイズも知らない。 ましてや、「残すことに強い罪悪感を覚える」という、あなた個人の繊細な価値観まで配慮する義理はない。

にもかかわらず、彼らは、

「自分に合わない」 ↓ 「だから、あの店がおかしい」

という奇妙な三段論法を展開する。主観という狭いフィルターを通してしか世界を見られない人間は、世界のすべてが「自分を中心に回っている」と錯覚しているのだ。

フードロスに反対したいのなら、その高潔な誇りを胸に全部食え。

いやいや、自分の体調が大事ならば、ただ残すせばよい。

どちらの覚悟もない中途半端な人間が、自分の不始末を店のせいにする。

世の中のネットレビューの半分は「お気持ち表明」

この構造は、グルメサイトやECサイトのレビュー欄を見れば、嫌というほど溢れ返っている。

これらはもはや、対象の「正当な評価」ではない。単に「自分の思い通りにならなくて不機嫌になりました」という、子供のわがままな日記、あるいは「お気持ちの報告」に過ぎない。

彼らは、商品やサービスの価値を採点しているのではない。「自分の期待通りに自分をコントロールしてくれなかった相手」を攻撃しているだけなのだ。

「合わない」と「悪い」を混同する病

言うまでもないが、「合わない」と「悪い」は180度違う概念だ。

激辛が売りの有名店に行って 「舌が痺れて味が分からない。最低の店だ」 と激怒する。

これは店の失敗だろうか? 違う。100%客側のエラーであり、単なる「相性の問題」だ。店側は何も悪くない。

しかし、精神的に自立できていない人間は、この「相性の問題」を「善悪の裁判」に持ち込もうとする。「私は被害者だ」というポジションを取りたがる。

人は意外なほど、自分の問題を自分の問題として認識したがらない。 自分の食事量、自分のリサーチ不足、自分の価値観、自分の選択。こうした「本来自分が責任を持つべき領域」を、すべて外の世界(店や他人)に投影し、責任をなすりつける。

だから、「私には合わなかった、次からは気をつけよう」という大人な自己完結ができず、「あの店はおかしい、被害者を増やさないために叩かなければならない」という正義の仮面を被ったモンスターが誕生する。

何かを批判したくなった時、一度胸に手を当てて考えてみた方がいい。 それは本当に相手が「悪い」のか。それとも、単にあなたに「合わない」だけなのか。

自分の不機嫌を他人のせいにしているうちは、一生美味い飯にはありつけない。

そして私は次にこの町中華に行った時に、いつも通りこう言うだろう。

「C定食、小ライスで」

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